今でこそ不倫や浮気に対する熱が世間的にかなりの勢いで、
バッシングを浴びますが、
昔は「英雄色を好む」などと言われ、権力者や実力者は、
大いに不倫や浮気を楽しんだものと言われています。
もちろん今の様にSNSやインターネットもなかった時代、
もっと牧歌的な背景もあったにせよ、
それでも行き過ぎではという偉人もいます。
日本の初代内閣総理大臣であり、激動の幕末史に今なお語り継がれる
偉人・伊藤博文も大の女好きとして有名でした。
まさに『英雄色を好む』とはまさにこの人の為にある言葉なのかもしれません。
1863年、伊藤博文は長州藩士として尊王攘夷運動に明け暮れていましたが、
長州藩の命令によって、のちに内務大臣・外務大臣を務める事になる井上馨らと共に、
イギリスに留学しました。
留学中に伊藤のなすべき事は「人情風俗や文明」の調査という名目。
その為、他の留学生よりも多くの資金を藩から受け取っていたと言われています。
しかし伊藤はそのお金をあろう事か、イギリスの色町に入り浸って使っていたのです。
もちろん当時伊藤はまだ22歳、血気盛んな頃であり、
仕方がない面もありますが、それでも度を越した行動に、
他の留学生からも批判の声が相次ぎ、伊藤を帰国させよの声が相次いだものの、
井上馨がとりなして、何とか事なきを得たと言われています。
1864年に伊藤博文はイギリスから帰国します。
当時は攘夷派(外敵を斥けようとする思想)と開国論者が激しく衝突をしていました。
伊藤は開国論を主張しており、攘夷派からは売国奴として、
命を狙われている状況でした。
その時に伊藤をかくまったのが、下関の芸者であったお梅。
当時伊藤には親が決めた妻・すみがいたのですが、
お梅の元に頻繁に通い、ほどなくしてお梅は妊娠。
伊藤はすみと別れて、お梅と結婚する事に。
ちなみにすみは伊藤の友人の妹であり、武家の娘でした。
まだ階級社会が根強く残っていた当時の日本では、
その伊藤の選択が周りから多くの批判を受けたことは想像に容易い事です。
数々の女性と関係を持ち、周りに迷惑をかけてきた伊藤ですが、
やはり「英雄色を好む」でしょうか、兵庫県令という要職についても、
この女癖は治りません。
福原遊郭で料理屋を営んでいた千崎弥五平の娘・お仲と関係を持ってしまうのです。
伊藤は千崎屋に頻繁に通う事になり、
それはやがて夫人のお梅の知るところとなります。
伊藤は夫人のお梅から大変なカミナリを落とされたそうですが、
また間をあけて、お仲と関係をもってしまう様になるのです。
そこでお梅は井上馨に頼み、お仲を兵庫県の巡査と結婚させることにより、
関係を切らせたと言われています。
他にも人妻であった岩倉具視の三女と舞踏会で関係を迫ったなど、
もう枚挙にいとまがありません。
それほどの精力・パワーがあったからこそ、
あそこまでの事を成したともいえますが、
今の政治家が伊藤博文の様に奔放な性生活を送っていれば、
間違いなく職を失ってしまう事になるでしょうね。